他者論

他人の痛みは理解できない

僕の言いたいことはこのタイトルに集約されてます.結局その人にならない限り痛みなんてものはどうやったってわかりはしない.

第一,痛みというのは計量可能なものではありません.客観的に「一般的に,擦り傷は痛み5で,腕の骨折は痛み40」みたいに数値化して論じれる類のものではありません.それに同じ類の痛みであっても感じ方というのは状況によって大きく変わります.例えば,恋人と一緒にいるときに,ふざけてほっぺたをつねられるのと,学校でヤンキーに絡まれた中でほっぺをつねられるのでは,もしつねる強さが一緒だったとしても痛みというのは全然違います.それに痛みというのは移ろいやすいものです.「喉元過ぎれば熱さを忘れる」ということわざにある通り,自分が経験した痛みであっても,時間がたつとその時の感覚というのは忘れてしまいます.自分自身の痛みでさえ,まともに理解するのは難しいんですから,他人の痛みなんてなおさらです.

・・・

視点を変えて

逆に,他人の痛みが完全にわかる世界というのを考えてみましょう.他人の痛みがわかるというのは,痛みに至るまでの背景とその人の痛みの感じ方そのものを自分が追体験できるということです.まあ無理がある設定です.
ですが,これが可能であると仮定すれば,何が起こるか.それはコミュニケーションがいらなくなるということです.だって,もし自分が他人の痛みを完全に理解することができれば,それは他人の喜怒哀楽すべてを理解することになるからです.さっき述べたように痛みというのは周りの状況にも左右される極めてあいまいなものですから,それが理解できるのであれば,他の感性・感情も理解できて然るべきでしょう.まさに以心伝心の世界ですね.でもこんな世界なら生きる価値はないわけです.だって全てがもう分かり切っているんですから.他人と喋ろうとしたところで自分の脳内で会話を終結させることができるので,他人とかかわることはなくなる.そうすると人生はただ,自分ひとりのために生きることになるのですが,そんな人生に価値はありません.結局,背理法的に他人の痛みが理解できない世界の正当性が保証されるわけです.

導かれる結論

当然,この「痛みが理解できない世界」ではコミュニケーションは必須です.人間は意思疎通を図ることでお互いのことを理解しようと努めますが,結局完全に理解することはできない.でも,それでいいんです.重要なのは「理解しようとする」その姿勢そのものなんですよね.
だからこそ,人は「知ったかぶり」を忌避する.それは話している本人が「わかってほしい」と思って話していることであっても,心のどこかで「この話を他人に理解してもらうことは無理だ」とわかっているからだと思います.じゃあなんで,人は他人に自分の痛みを話すのかと言えば,それはただただ「話を聞いてもらいたい」ということに尽きるのでしょう.別に内容を理解してほしいとか,共感してほしいなんてことは思っていないんです.ただ,「自分はこうなんだよ」ということを自分の口で伝えたい.実際,僕がブログを書いている意義もここにあるのかもしれません.

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