国語教育の重要性を説くにあたって,着目すべきポイントの一つに学習の方法論の特異性が挙げられます.
理数系の教育では最初に定理が教えられ,それを使っていくつもの演習問題を解くことで演繹的に定理に対する理解を深めていきます.それに対して,国語(と英語?)は正反対で,文章を読むのに汎用的で体系だった方法論というのは存在しません.問題演習をひたすら繰り返していく中で,個別の文章に真っ向からぶつかり,帰納的にそのテーマ全体に対する理解を深めていきます.
問題なのが,演繹的思考法はわりと数学・理科全体に共通する考え方(もちろん,学校教育の中だけでの話ですよ!)であり,それら複数の科目内で十分に訓練できる場面があるのですが,帰納的思考法は,残念ながら文系科目(国語・英語・社会)のなかでは国語でしか養成できないという点です.
というのも,英語はそもそも「文章をまともに読めるようにする」教育でいっぱいいっぱいで,内容ある文章を教材とすることができるのは上位大学の個別入試(とその対策)くらいに限られますし,社会科目も,学習指導要領に沿った内容をひたすら頭の中に整理していく作業で精いっぱいで,現時点での教育では,時代や空間を超えた普遍的(またはそれに準じる)価値や知見をみつけることはほとんど期待できないからです.
しかしながら,この帰納的思考法というのはこの時代を生きるうえで極めて重要な能力のうちの一つだといえるでしょう.正直,受験教育の中でも「背景知識」の一言で簡単に片づけられることが多いこの思考法ですが,「複数の情報源から有意義な情報を読み取り,自分の中で再構成する」という能力は,ネットで調べ物をするときはもちろん,仕事をするときや,人間関係を築く場面においても活用できる非常に汎用性の高い能力であり,この能力を養成する国語教育の必要性は言うまでもないことだと思います.
国語教育で一番大切なこと
ただ,個人的に僕が国語教育で一番大事だと思っていることは他にあります.
(国語の教育にはこれら以外にも,ほかの科目の学習と一線を画す,ある大きな違いがあります.)
それは,問題文の読解という個別的経験が与える影響についてです.
学校教育で扱うジャンルは,(高校に限ったわけではないんですが,)大別すると小説と評論のふたつでしょう.このふたつのジャンルの中では,扱われるテーマは本当に様々です.よくあるのは,小説で言うと家族や友人との関係性を取り扱ったもの,評論ならば環境問題や国際化について取り上げたものだった気がしますが,現代文の試験の場合,こういった王道の題材がそのまま出題されることは少なく,むしろ一風変わったテーマのものや,人気のある題材でも変わった切り口から出題されるものが多かった気がします.無論,これは僕の主観だけで言っているのではなく,ページ下部に載せてある直近5年分のセンター試験&東大現代文の出典を見ても理解できると思います.要するに,現代文というのは狭いテーマに囚われない,大きな拡がりを持っていると思うんです.
そして,このことによって可能になるのが個性的な文章との出会いによる自己の変化です.
議論の出発点として,そもそも万人に合った文章など存在しないことを理解する必要があります.
僕もブログを書いていてわかってきたんですが,文章というのは結構人となりが出てくるんですよね.たとえ,客観的な内容を書き上げようとしても,切り口や文体にどうしてもその人の癖のようなものが出てくる.だから,当然人間同士に相性があるように,読み手と文章の間にも相性というものがあるんです.
だからこそ,何を読み,そこから何を感じ取れるかもひとそれぞれです.決して小説だけが多義的な解釈を許されるわけではありません.評論やエッセーだって人によって受け取り方は違うはずだと,僕は思ってます.
そして個性的な文章をいくつも読んでいくことで,自分の考えをまるっきり変えてしまうような本や自分が言いたかったことをズバッと言い表した文章に出会う時がきっと来るはずです.(僕が内田樹と中島義道にはまったのはこのためです.なお,内田先生自身もこの効果について言及しています.詳しくは「下流志向〈学ばない子どもたち 働かない若者たち〉 (講談社文庫)」をご覧ください.)
よく,現代文を勉強すると「のめり込んで読んではいけない.客観的に読め」といった類のことが言われますが,それとは別にこういったタイプの読書も必要なんだと思います.こういった本に出合うことができれば幸せでしょう.そこからは「国語の勉強」に囚われずに,自分の世界を広げていくことができます.国語はそのきっかけを作ってくれるわけなんです.
国語教育の主目的は読解力に代表されるような普遍的能力の獲得であることは間違いないでしょう.
そうはいっても,それを身につけるプロセスにおいて,それぞれの具体的な教材もまた大きな力を持つのです.
そして,僕はこの個別的経験が持つ力を軽視してはいけないと思うのです.
P.S.
ちなみに僕が高校時代,現代文の学習において学んだことは「他者がいなければ人は生きられない」という,この一点です.日本の教育者の意図はわかりませんが,僕はそう解釈しました.他にも同様の解釈をした人がいれば嬉しいのですが…
Appendix 近年のセンター試験&東大入試の題材
センター試験
2018年度 有元典文・岡部大介「デザインド・リアリティー集合的達成の心理学」
井上荒野「キュウリいろいろ」
2017年度 小林傳司「科学コミュニケーション」
野上弥生子「秋の一日」
2016年度 土井隆義「キャラ化する/される子どもたち」
佐多稲子「三等車」
2015年度 佐々木敦「未知との遭遇」
小池昌代「石を愛でる人」
2014年度 斎藤希史「漢文脈と近代日本」
岡本かの子「快走」
2013年度 小林秀雄「鐔(つば)」
牧野信一「地球儀」
東大現代文
2018年度 野家啓一「歴史を哲学する」
串田孫一「緑の色鉛筆」
2017年度 伊藤徹「芸術家たちの精神史」
幸田文「藤」
2016年度 内田樹「反知性主義者たちの肖像」
堀江敏幸「青空の中和のあとで」
2015年度 池上哲司「傍らにあること 老いと介護の倫理学」
藤原新也「ある風来猫の短い生涯について」
2014年度 藤山直樹「落語の国の精神分析」
蜂飼耳「馬の歯」
2013年度 湯浅博雄「ランボーの詩の翻訳について」
前田英樹「深さ、記号」
各年度で上のものが文理共通,下のものが文科のみの出題です