「投票に行く」というのは一般的に「体の不自由な人やお年寄りをいたわる」とか「他人に親切にしてもらったらお礼を言う」のと同列で語られる類の「疑いようもないほどの善行」としてあつかわれますが,統計的に言えば,自分ひとりが行こうが行くまいが全く結果に影響はないです.
選挙の目的
これはつまり,国民一人一人が選挙に行くというのは,きっと「投票に結果を与える」ことが目的じゃないんですよ.重要なのは,選挙に行くことで自分も国づくりに参加しているんだという「実感」なんですよね.
だって,ふつうの国民が自分が国に対してしていることと言えば納税くらいなもんですから.でも納税は,なんだか国からの給与の搾取みたいな気がして,あんまり気持ちのいいものじゃないかもしれませんが,投票はもっとポジティブに感じれるものなんだと思います.
だから投票というのは,僕は政治的というよりも国民意識の教化的役割のほうが大きいと僕は感じています.
そして,投票に行かないということは,それが意識的であろうがなかろうが,国家や社会と距離を置くことを意味しています.そして,残念ながらそういった人は得てして社会的な弱者であることが多い.(誰が投票に行かないか )
だいたい,社会的弱者というのは政治のことを考える余裕なんてないんですよ.今日の飯はどうなるかというレベルで生活している人に明日の国のことを考えろと言われても「そんなもん知るか」としか言えないでしょう.
クラスでたとえてみると…
でも,そりゃそうですよね.例えばクラスで文化祭の出し物を決めるときは,たとえ自由な発言が許される場であっても,たいていはクラスのカースト上位の人間がメインで発言します.そして,みんなこれでいいと思っている.
クラスで地味な子が「文化祭では絶対にこれをしたい」と言って,革命的にそれをクラスとしての出し物にすることはそうでないケースよりも圧倒的に少ない.それよりも,彼らにとって不満がないわけではないけれど,下手にことを荒立てるよりも,決まったことに素直に従っておいた方がいいと分かっている.そして,文化祭の準備の愚痴を仲間内でウダウダ言い合うのもまた楽しいことだというのを理解している.
「選挙に行け」というのは文化祭の例で言えば,カースト上位のやつがみんなに向かって「お前らもっと発言しろよ」というようなものです.僕がもし,このクラスにいたとすれば「サムいこと言うなあ.こうなったら絶対に発言してやるもんか」と思います.文化祭の質はどうなろうとかまわない,とにかくこのいままでさんざん調子乗ってきたやつらを,ここらで一発かましておきたい,と思うはずです.
多分,選挙というか,国民の政治参加も似たような構造なんじゃないでしょうか.
これが単純に僕の性格が腐っているだけだとしたらいいんですけれど…
でも,もし僕の予想が正解に近い場合はかなり厄介だと思います.だって啓蒙されるべきは選挙に行かない人間ではなく,いつも偉そうに講釈垂らしている側の人間なのですから...